私の8月15日

 今年は敗戦から60年,メディアではいろんな特集が組まれています.国際関係や国内政治の動向に決して無関心ではありませんが,毎年この日を迎えると,メディアがあおる一般論からはだんだんと距離を置き,自分自身の記憶の底に興味を向けようとする自分自身を発見します.

 私が生まれたのは1954年,そして亡父の生まれが1913年.年齢的に言えば,父も戦地に行っているのが当然.しかし,父はこどもの頃に火傷して,右手の人差し指と中指が癒着した状態.さらに乱視がひどくて結局兵隊検査は不合格(?)故,戦時中も(私の生家である)寺に疎開の子どもたちを受け入れて,その世話をしていました.今にして思えば,私が小さな頃に生家に来られた来客は,親戚をのぞけばそのころの疎開関係の方々であったように思い出します.
 まだ我が家にテレビがなかった頃,おそらく私が小学校入学以前のことと思うのですが,夕飯が終わるとよく父が戦争当時の話をしてくれ,他の兄姉は知りませんが,私自身はその話しが大層面白く,何度も話をせがんだことをかすかに記憶しています.その話というのは,戦時中,自分は戦争には行かなかったが,長姉(43年生まれ)長兄(44年生まれ)を自転車に乗せて用足しに出かけた帰り,アメリカ軍の戦闘機に機銃掃射を受けて,命からがら竹藪に転げ込んで親子ともども助かった・・・,そんな話であったと思います.
 父とは離れますが,小学生の時に戦争を「感じた」ことがありました.小学校の2,3年生の頃と思いますが,放課後の掃除の時間のことです.私たちの担当が校舎の中庭であった時,当時はみんな自宅で作った竹箒を学校に持ってきて作業に使っていました.その竹箒を入れておく入れ物があったのですが,ドラム缶とほぼ同じ大きさの入れ物でしたが,金属ではなくて色が白っぽく,胴体には何やらアルファベットが書き込まれています.それを担任の先生に質問したのか,自分自身で調べたのかは定かではないのですが,進駐軍がくれた「脱脂粉乳」の入ったドラム缶(金属ではなく段ボールのようなものでしたが)の残骸であったのです.60年代前半の話です.ただし,その事実関係については,今となっては確認する術もありませんが.
 8月15日を迎える度毎に,思い出すことを今年も書いてみました.

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