熟年のたわ言 〜叔父の随想〜

 私の母の妹の夫,M田正さんが11月28日(月)午前9時0分に亡くなられました.今夜は通夜,明日の昼に葬儀が行われます.亡父の一周忌に編んだ小冊子「父のよすがに」に寄稿いただいた叔父の随想を掲載します.長年失礼をし続けた私には他に出来ることとて思いつかず,供養の表現とご容赦ください.

 戦後の荒廃より次第に立ち直りつつあった昭和23年5月10日,縁ありてM田家の養子となり,Kの地にタクシー(木炭車)の人となる.少年のころ,多田神社までは参詣したが,それからは未知.がたがたの地道,猪名川の流れも清らかではなく,山また山のくねくね道,点々とした集落.Nで成人した私には,想像もしなかった光景に「これは大変なところへ行くぞ」.後悔先に立たず,不安がつのるばかり.Yをすぎて下り坂(シバノ坂),右は崖,左は落葉樹の林の中程で,自転車で登ってくる男の人.「あっ,院主さんや」仲人のSさん(薬屋)が叫んだ.
 鼻筋の整った,やや赤ら顔.くりくり頭の中肉中背,三十代半ば.第一印象で「お酒の強そうな人やな,この方が俺の義兄となるのか」と,以来三十八年過ぎた今も,強烈に脳裏に焼き付いている.
 三三九度も終わり,親戚のみの披露宴が始まった.予想に違わずの酒豪,恐れ入りましたの心境であった.二日目の夜,村の方々のご招待での宴,三日目は仕事関係を主とした宴席.三日三晩眠りについている以外は,酒々々の酒漬け,私も負けじと頑張った.「M田の養子は,おじゅっさんよりも強いなぁ」の声が聞こえる.二人とも箸をつけることなく,指されては「ぐい」,返杯の繰り返しで,新婦に気遣うということがなかった.二十四歳四ヶ月の私と,義兄さん三十との出会いであった.
 目に青葉,山時鳥,初鰹.夢のような三日間が過ぎた.百姓に関しては全くの素人.当時,和牛二頭,山羊一頭がいた.家内は飼料の麦を大釜で炊く.私は草刈り.K口の新田に蓮華草刈り.父に教わり,一対の篭に踏み込んで,腰を切ると,あがらない.杖をつきやっと立ち,帰路につくが,三十米も歩くと肩を代えなければならない.歯を食いしばっての苦行.鍬を持ったこともない男が,牛の草を運ぶ.人生の空しさを感じた.しかし,おいしそうに食べる姿を見るとほっとする.連日の「蓮華がり」,広い田んぼの刈り込みは,遅々として進まない.
 要領を覚え,篭の目から外へはみ出し,中をふわふわにすると軽い.ところが,量が少ないため,すぐ食べてしまう.我ながら力のなさが情けなかった.
 苗代づくり,畦の草刈り.大麦小麦が日一日と黄金色に変わり,麦刈りが始まると,日雇いのT口のお秀さん,おっちゃん,A子姉さんも動員.したたる汗を拭き,腰の痛さを堪え,裏返し,納屋に運び込む.
 畦での小休止,お茶をのみ,小昼を食べての団らん.裸電球の下での夕食.副食の味付けはズルチン,サッカリンで甘みを出す.空腹には何を食べても満腹.ただ,アルコールのない毎日,疲労を癒す明日への活力源を提供できなかった非力が,申し訳なかった.
 仏前での読経で,後席の私はいつもこっくりこっくり.妻につつかれる毎夜.平均睡眠時間5,6時間.牛の世話が終わると,自家用貨物自動車(一時は二台あった)の「木炭車」のガス発生器の「灰」「スス」の掃除.準備万端終わり朝食.
 山へ原木積み込み.トラックに乗っている一時が,休息と解放された自分の時間であった.妻と二人新田に行ったとき,「俺たちの新婚旅行は田んぼやなぁ」と語ったものである.農繁期には相手お構いなしで,義兄たちは手伝わされ気の毒でもあり,反面嬉しかった.時移り,両親はSへ本家を構え,分家としての生活がまた大変.田こしらえ,収穫期に帰ってくるだけ.供出(政府米として割り当てられて出荷)の残り半分を本家に運び込む.諸経費は分家持ち.小作人以下の夢も希望もない年月が過ぎる.その間,日暮れの一時,闇焼酎(密造),ビールびん一本二百数十円を買って,庫裡の竈の前で,我が家の沓脱に腰掛けて,臭くて異様な香りの「チュウ」,今ではお目にかかれぬ「ドブロク」を飲み,溜飲を下げる二人の間柄であった.
 日本酒ビールが自由に買える時代になっても,主として安い「チュウ」「ドブ」で通した.たまたま一升瓶を手に入れると「もうちょっとで止めとこ」といいながら,必ず空き瓶がねんねするほどの豪快さ! 世相放談の中,意見が合わず,強情張り同士,歩み寄ることなく不平の中に,若い私が引き下がったものである.
 曇天の朝夕には,必ず汽車の汽笛のもの哀しい「ボー」.T駅からKの空に響いてくると,望郷の念に駆られ,帰心,矢のごとく,いたたまれなかった.お互いに町育ち,義兄さんも同じだったと思う.
 Nの実家へ帰り,三日過ぎ,四日過ぎ,帰りにくくなると,決まって義兄の出番.説教はお手のもの.なだめすかされ,二人で帰宅した事は数え切れない.本当にお世話になりながら,M田家の事情でKの地を離れた私たちは,もう二度とこの地を踏みたくない.
 苦い苦しいことのみ多かったK,しかし時々影武者のごとくお寺へお伺いするときは,心底からほっとしたものである.
 不幸にも病に倒れられた後の永い永い年月の間,おばちゃんはじめ,寺口家ファミリーの手厚い看護,団結力には,深甚の敬意を表しますとともに,M田ファミリーと共々,末代までもお付き合いの程をお願いします.まだまだ色々なエピソード,想い出がありますが,つたない熟年のたわごとと,流し読んでくだされば幸甚です.合掌.
 昭和六十一年三月十一日,春雨降る会社の机上にて.
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 これは,亡父の一周忌の際,私が編集して身内に配布した『父のよすがに 一年の後』(1986年3月)に掲載された,叔父の文章です.義兄=私の父を悼む文章となっていますが,叔父の若かりし頃の暮らしの一端と父との交流の様子が窺えて,私にとっては大変貴重な文章です.文中の地名については,直接的な表現を避けさせていただきました.叔父のご冥福をお祈りします.合掌.

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